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「関ヶ原の戦い」これは1600年にあった天下分け目の戦いと呼ばれている、徳川家康を総大将とする7万人の兵を要する「東軍」、と石田三成を中心とする反徳川勢力の10万人の兵を要する「西軍」とが美濃の関ヶ原で行なった合戦です。この合戦で徳川家康の東軍が勝利し天下統一を果たしました。

関ヶ原の戦いはとても有名な合戦ですよね。そして多くの人はこの関ヶ原の戦いが戦国時代最後の大きな合戦と勘違いしているのではないでしょうか?

この関ヶ原の戦いの後にも大きな合戦があります。それが「大坂の陣」です。そして大坂の陣は「冬の陣」と「夏の陣」の2度行われています。

初代天下人となった豊臣秀吉が病死し、豊臣政権内部の政争から始まった豊臣秀吉の後継争い。関ヶ原の戦いに勝利したことで天下統一を果たした徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きました。

征夷大将軍となった徳川家康は260余りいる武家大名と主従関係を結び、日本で一番権力と影響力を持つ人物となりました。

しかし、豊臣秀吉の没後、豊臣家の家督を継いだ豊臣秀頼は大阪を中心に強い影響力を持っていました。そのため、徳川家康は豊臣家をよろしく思っておらず、いつか豊臣家を滅ぼそうとその機会を狙っていました。

1614年、豊臣家が再建していた京都の方広寺が完成し梵鐘に刻まれた鐘銘文をめぐって事件が起きました。この事件を「方広寺鐘銘事件」と言います。

梵鐘には「国家安康」という文字が刻まれ、徳川側はこれは家康呪詛の意図があると解釈。豊臣家は何度も悪意はなかったと弁解しましたが、豊臣家を滅ぼす機会をうかがっていた徳川側は聞き入れず。徳川家はこの方広寺鐘銘事件を理由とし、豊臣家を滅ぼすために大阪城へと出陣しました。この戦が「大阪冬の陣」です。

方広寺鐘銘事件を理由とし始まった大阪冬の陣。

豊臣側も戦は避けらぬとし戦の準備を開始。旧恩の有諸大名達に声を掛け、お金に物を言わせて兵糧を買い占め、武器も新たに買い入れし、全国から浪人を集め召抱えました。総構の修理・櫓の建築なども行いました。

しかし、声をかけた諸大名達は大阪城へと集まっては来ませんでした。それでも全国から集めた浪人たちを合わせて豊臣軍の兵力は10万人にものぼりました。

その兵の中には、過去の戦でも活躍していた武将、真田信繁、長宗我部盛親、明石全登、後藤基次、毛利勝永ら五人衆。そして塙直之、大谷吉治らもいました。

1614年11月、大阪城へと出陣した徳川家ですが、大阪城に篭城した豊臣側に対して攻めあぐねていました。大阪城にはその周り全てに大きな堀が張り巡らされており、簡単に攻めきれませんでした。

特に、真田幸村が指揮をとった真田丸での攻防による徳川側の被害が多く、一時撤退に追い込まれました。真田幸村が天下人となった徳川家康に、一矢報いた瞬間でした。そして徳川家康は真田幸村に対し「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」という言葉を発しました。

ちなみに徳川側幕府軍の兵力は20万人もいました。20万人で大阪城の周りを囲みながらも、その人数をもってしても落とせない大阪城はとても守りが固い城だったんですね。

大阪城を攻めきれない徳川側は、兵糧不足と冬の戦であったため、12月3日に豊臣側へ和平交渉を行っている。自分たちから仕掛けた戦なのに自分たちから和平交渉を持ちかけるのはどうかとも思いますが、これは徳川側の作戦でした。

この和平交渉の内容は豊臣側から様々な和議案が提出されましたが、徳川側はこれを全て拒否。逆に徳川側有利の内容の和議が出され、徳川側の攻撃により兵糧が尽きかけていたこと、城内の兵の疲れもあり、さらには城内に砲弾が打ち込まれあまりに凄惨な光景を見て、豊臣側は徳川側有利の和議を受け入れました。

そして、19日には講和条件の合意、20日には誓書が交換され和平が成立しました。

和平条件の中に、徳川側による城攻めの障害となっていた堀の埋めるという項目が入っていたために、大阪城の外堀は埋め立てることとなりました。

通常堀を埋める時は、一部分を埋めたり土塁の角を崩すだけというものでしたが、徳川側はこれを許さず。堀全てを埋めるように命令しました。さらには、防衛拠点となる「二の丸」や「三の丸」、さらにその周囲の砦まで破壊され、大坂城は防御するための掘や砦のない城となってしまいました。

和平が成立したあと、家康と秀忠は戻っていましたが、大砲の製造を指示していたなど、次の戦の準備を始めていました。

和平が成立してから約5ヶ月後の1615年5月、徳川軍は再び大阪城を攻め始めます。この際、徳川家康は自軍の兵に対し「三日分の兵糧でよい」と命令したという。

大阪城は和平条件で外堀を埋め、「二の丸」や「三の丸」も取り壊し、防御する術を失っていました。そのため、徳川軍の攻撃によりたったの三日で大阪城は攻め落とされました。

徳川家康が言った「三日分の兵糧でよい」という言葉通りになってしまいました。

そして豊臣秀頼と淀君が自害し、豊臣は滅亡しました。

二度に渡る大阪城攻め。一度は耐えた豊臣軍も凄いですが、作戦を練り二度目の攻めを行ない勝利した徳川家康。これで真の天下統一を果たしました。

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