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応仁の乱
「応仁の乱」を一言で話すのは無理があります。言うなら、有力大名の家督相続争いと、足利将軍家の後継者争いが重なり、それぞれの立場に荷担する派閥が付いたために、問題が複雑化、大規模化していき、東軍24ヵ国16万の兵士対西軍20ヵ国11万の兵士の大規模な戦乱となり、戦場となった京都は焼け野原となったのです。「応仁の乱」は両軍大将の病死で自然消滅しますが、時代が大きく動きます。
応仁の乱の前後
応仁の乱の前は、荘園が権力者の財政を支えてきましたが、応仁の乱が終わると、荘園は地元に残っていた守護代や国人が直接支配するようになります。中央権力が消滅したのです。
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